コラム

2010.12.05コラム①:「神さまと努力」
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これは「神さま」の話だ、「宗教」の話じゃない。

神は、いると、思う。

「神さま」という「者」なり「物」は実在しないかも知れない。

 いや、「実在」するしないではなく「存在」するしないの話だ。

もっと言うと、いるいないは、どうでも良いという話だ。

特定の宗教をお持ちの方には、多少不愉快かも知れないけど、少しの間お付き合い頂ければ、と思います。

 

神さまの話をする前に、「ドラえもん」の話をしたいと思う。

ドラえもんは「実在するか」と聞かれれば、多くの人が「実在しない」と答えるだろう。

僕が「ドラえもんは実在するんだ!」と言い張ったら、みんな「こいつは、とうとうイったか」と思うだろう。

でも、ドラえもんは「存在」するのだ。

ドラえもんは、日本人のほとんどが、そして世界でも多くの人々が、認識している存在である。

「こんな見た目で、優しくて、面倒見が良くて、ネズミが嫌いで、・・・」という認識が、多くの何千万という人々の中にある。

多少の誤差はあるかも知れないが、ほぼ「共通の認識」として「共通のドラえもん像」があると思う。

世間に、世界に、そういう確固たる認識を持たれた場合、それはもう「ドラえもんの存在」なのだ。

例え作者の藤子先生、藤子プロが新作の劇場映画で、「タバコを吸って拳銃撃って、金髪美女と寝る、ドラえもん」を描いたとしても、世間は、

「そんなのドラえもんじゃない」と言うだろう。

それは、世の中には、世の人々の心の中には、「ドラえもん」がいるからであり、そこから外れたら、それはもう「ドラえもん」じゃないのである。

仮にあんなロボットが実在していても、世の中の誰も知らなければ、いないのと変わりない。

「実在」してなくても、「存在」してなくては意味がないし、「存在」している以上、「実在」していなくてもいい。

 

これは例えば実在する人間でも同じだ。木村拓也が本当はどんな人かに関わらず、世の中の人の中に「木村拓也像」が出来上がっているとしたら、本人が、

「本当の俺はそんな人間じゃない」と言った所で、関係ない。

お笑い芸人で言えば、オードリーの春日さんあたりが、本気で真面目に2枚目を演じたとしたら

「お前、そんなキャラじゃないだろ、春日のくせに」となるだろう。すでに「○○像」が出来上がっている人の場合、「本当は」なんて無いのだ。

普段の生活を送っている「春日俊敏さん」がどんな人であれ、「お笑い芸人春日」とはまた別の存在だ。

よって、本当は木村拓也も、オードリー春日も実在せず、全部CGによる虚像だったとしても、まったく問題ないのだ。

実在しなくても、存在しているだけで、TVを見て楽しむのには充分で、「春日さんの実在を証明する必要」はどこにもない。
                      

神は「実在」するかどうかに関係なく、「存在」する。

何千年も前から、世界中の人達に認識され、対象として祈られているモノが存在しないわけはない。

そして、実在してようが、してなかろうが、特に問題無いし、仮に実在してなくても、存在していれば祈るのになんら問題はない。

 

どんなに神を信じていない人でも、本当に困ったら、祈らずにはいられない。具体的に「神さま!」と思わなくても「なんとかして!」と何かにお願いするだろう。

毎回毎回、祈るたびに「何か」では困るし、あまりのもその回数が増えたので「神」という名前が付けられたのだと思う。その祈る対象に。

 

太古の昔、「雷」は「神鳴り」だったらしい。ピカピカゴロゴロの現象が全く理解不能で、自分達の力が遠く及ばないので「あれは神さまのお声だ」という事で、

「神」が「鳴」って「神鳴り」になったらしい。

それから人はどんどん知恵をつけ、「神って言うけど、それってどんなの?」という所から「風には風の神がいて、雷には雷の神がいるんだ」という事で、「風神」「雷神」なんて「名前」がつけられ、さらに発展すると「菅原道真公がお怒りになってる」なんてところに来る。

時が経ち、人が変わり、雷は気象現象だという事がわかり、「雲の中での帯電が限界を超え、地上に放電する現象」という認識になったとしても、誰も雷雲の中を直接見たわけではないし、我々にどうする事も出来ないのに変わりは無い。

でも名前が「神鳴り」から「雷」に変わった時から、存在は変わったのだ。

そうして、どんどん神さまのいる所は消えていったのかもしれない。

特に戦後の日本は、「右」だの「左」だのの影響からか、今までいた神さまがいなくなってしまった。

でも、人には神さまが必要だ。

 

生きる事は辛い。不安になったり、恐れたり、怒ったり、常に心は揺れる。揺れた心は、元に戻さないと、とても前に進めない。

その時に戻って来るところが、心の支えが、必要だ。

心の支えが必要なのは、揺れてしまった後だけではない。これから揺れそうだな、という時、新しい事にチャレンジしようという時や、環境に変化があった時、

「自分には、支えがある」、というだけで、安心してチャレンジ出来る。

茂木健一郎さんの本に寄ると、子供のときのそれは、親なんだそうだ。

何があっても、最終的には親が助けてくれる、見守ってくれている、という心の支えがあるので、安心して色々な事にチャレンジ出来るし、迷った時は導いてくれる。

大人になった日本人、親もいなければ、神もいない。

支えを求め、マニュアルや、自己啓発本に頼るんじゃないだろうか。

だが、どんなに優秀な思想やマニュアルでもそれだけでは、「神」にはもちろん、「親」にもなれない。

その為に、キリストだったり、マリアだったり、ムハンマドだったり、ブッダだったり、祈る対象を具体的にして、「教え」という生きる為のガイドラインを得るのが宗教なんじゃないだろうか。

かと言って、今日から教会に行けとか、一日に数回メッカの方に祈れ、というのは、あまりに突然すぎて難しいと思う。

神は必要だが、必ずしも大きな宗教である必要はない。

辛い時や、助けが欲しい時に祈る対象は、実は、他ならぬ「自分自身」であると思う。

「苦難を乗り越える力」や「新しい環境でも挑戦する勇気」は外の世界には無い。

どんなシチュエーションでも、結局なんとかするのは自分自身だし、誰かの協力で何かを達成しても、最終的に、成し遂げたのは自分自身だ。It’s your decision.だ。

そんな力は、外の世界には実在しない。でも、確実に人の中に存在する。まるで「ドラえもん」のように。

神は実在しない。

でも、人がいて、生きいてる限り、その人の中に確実に神は存在する。

いや、「その人自身」が、「神」なのでは無いかな、と思う。

 

神の力を借りるには、祈りが必要だ。

そして、祈りには、決められた所作が必要だ。

毎日毎日、何千回、何万回と、同じ動作や行為を繰り返す。

イチロー選手が、打席に入る時に繰り返すあの動作は、祈りなのだと思う。

チャンスの時、ピンチの時、心が揺れても、儀式のように同じ動作を繰り返せば、自分のニュートラルに戻れるのではないだろうか。

その動作を、祈りにする為には、毎日毎日、何千回、何万回と繰り替えす必要がある。

いざという時に「乗り越える力を」と祈っているのは他でもない、過去に何年も何年も積み重ねてきた、自分の努力、払った犠牲、それらそのものが、祈りの対象なんだと思う。

バレエダンサーは、幼少の頃から、毎日毎日、何年も何年も、レッスンを繰り返す。

遊びたいのも我慢し、食べ物に気を使い、睡眠を充分とり、ストレッチを欠かさない毎日を繰り返す。

何年も何十年も。膨大な時間と、数多くの犠牲を、信じる神に捧げる。

その結果、生まれるのは、あの何物にも留めて置けない、一瞬の空間芸術だ。息が止まるほど、美しくて当たり前だと思う。

「お客さん為」か「自分の目指す芸術の為」か、具体的な事は分からないけど、バレエダンサーの神は「バレエそのもの」で、あの日々のレッスンが「祈り」なんじゃないだろうか。

 

科学的に言えば、同じ動作を、同じリズムで何日も繰り返すと、脳の中の精神安定物質「セロトニン」の分泌を促すそうだ。そして、必要な時に、その動作を行うと、セロトニンが出て、自分の心の揺れは収まる、というメカニズムらしい。ま、これは「神鳴り」か「雷」かくらいの違いだ。

自分がどれだけ犠牲を払い、どれだけの努力をして来たかを、人に自慢しても全く意味がない。

「私は、毎日かかさず神に祈っている」というのを、他の人に自慢するのと同じだ。全ては、自分と神さまとの間の話なのだから。

神がいようといまいと関係ない。「祈る」という行為そのものが、尊く、美しく、かげないの無いものだと思う。

そして、それは確実に人の力になる。

 

 

もし、貴方に目標があり、その為に毎日、何かの努力をしているのであれば、その「今までしてきた努力」や「これからする努力」は、「祈り」だと思う。

そりゃ祈るからには、神に会えたら幸せだと思う。

「今まで散々祈って来たのに、ちっとも助けてくれないから止めちゃった」と言って、祈る方法を変えるのも良いかも知れない。

祈りが足りないのか、祈る方法が違うのか、信じる神が違うのか、それは、残念ながら、なかなか分かりにくい。

でも、祈りそのものが心の支えとなるのであれば、その祈りは尊い。

たとえ、神に会えなかったとしても。

 

なんの事はない、日本人だって毎日「祈っている人」が沢山いるんだ。

それをちゃんと認識して、頑張っている自分を認めてあげれば、それは確実に、心の支えになると思う。

認識しにくければ、手近な人形や、御守りを、「神さま」にしちゃえば良いと思う。

 

「未来の自分の努力」や「今現在の自分の力」は信じられなくても、「神さまの力」なら、信じられる気がする。

多分、日本からいなくなったのは、神さまではなく、「頑張っている自分を、自分自身で認めてあげて、胸を張る事」だと思う。

 

誰も褒めてくれない努力もあるかも知れない。

 

 貴方の可能性を疑う人も沢山いるし、貴方の足を引っ張る人も沢山いる。

 

 時には、世界中が敵だらけのような気になるかも知れない。

 

 でも神さまだけは、貴方を信じているし、貴方の努力を、とっても良く分かってくれて、「良く頑張ったね」って褒めてくれると思う。

 

そして、貴方がたとえ、祈る事を止めたとしても、ずっと貴方のそばにいる。


絶対に、絶対に、裏切らない。



ヨーロッパの旅を終える頃、僕の中に、何か芯のような物が生まれた。

それは「自信」と呼ぶにはあまりに儚く、「目標」と呼ぶには、大きすぎるものだった。


それが、何かを考えてみたら、どうやら「神さま」なんじゃないかな、というお話しでした。